松山猛の台湾発見「お茶はコミュニケーション・ツール」

時計特集

台北の北東にある茶産地の坪林にある茶業博物館では、唐代の頃の茶館風景を人形で再現した様子が展示されている。

そして発表会当日へ

 僕らは林さんが経営されている、渓頭の明山別館というコテージに泊まっていた。ここは常夏の台湾中部にありながら、標高1200mという、いわば信州の上高地のように爽やかな世界である。そこから鹿谷へは車で約20分。薩摩芋の入った台湾風の朝粥をいただいて、9時半にはじまる発表会と表彰式典に出かけた。
 会場に着くと、梅雨時期ということもあって、設営された大テントには、すでに商品の20斤の茶を持ち寄った茶農家の人々が、ぎっしりと集まっていた。
 僕はゲストとして、省議員やら茶業関係のおえらいさんにはさまって、スピーチの一瞬にそなえてコチコチになっていた。
 まず開会の口火は、盛大な爆竹によって切られた。そして『三民主義の歌』が始まり、僕も壇上に起立して、孫文の近代革命のことなど考え、また「茶は人と人を結ぶ、自然界からの最上の贈り物でした」などとスピーチしようと考えていたのだが。
 いざ自分の話す時が来たとたんに、ゆうべから考えていた名文句もすっかり忘れて、その時思いつくままに、感謝の心をのべ、日本にも、鹿谷の凍頂茶のファンが急増していること、だから良いお茶を作る技術を持つ皆さんがさらに努力され、我々を満足させて下さるようにお願いしますと、早口で喋った。通訳の邱秘書長は、僕が一節ごとに区切ると思っていたのに、一気に話して困っちゃったとその夕方の宴席で、笑いながらおっしゃった。いやはや面目ない。
 こうして僕の茶の旅は一応の終りを迎えたが、実のところ、ようやく烏龍茶がわかりはじめた気分でもある。台湾の闘茶兄弟の末弟に加えてもらって、あの愉快な茶話の円陣で、楽しい時を過ごしたいと願わずにはいられない。
 鹿谷の心やさしい人々から、もう僕たちは本物の友だちだよ。だから台湾に来たら、ぜひ鹿谷に立ち寄りなさい。素通りはだめだからねと、うれしい言葉をかけてもらい、僕はほんとうにふる里を後にするような気分で、鹿谷の山を下りた。特等奨を取った人の庭先の祝賀の宴は、もっと夜遅くまで続くのだろう。なにしろ40卓、400以上の客をまねいての大宴会だ。楽団まで呼び、員林(イーリン)の町の海鮮料理店が出張して料理をたっぷり作る。
 ふりかえる村の上に、花火が次々と打ちあげられている。ありがとう林さん、ありがとう皆さん。すばらしいお茶と、楽しい思い出を、ほんとうにありがとう。多謝、多謝。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。

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