松山猛の台湾発見/古き善きものと新しき良きもの

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台湾社会も目まぐるしく変化してきた。1980年代にはまだ台北の東側郊外には田畑がたくさんあったが、そこが市街地となり大きなビルの街となって、新しいスタイルの書店などができた。その一方、まだ残されていた日本統治時代から戦後にかけてのさまざまな物への見直しが始まり、レトロパブと呼ばれる郷愁あふれる飲食店も人気となった。
松山猛・著『ちゃあい』より
(1995年、風塵社刊)


「レトロパブ」

 アジアの小龍から真の経済大国へ、ひたすら現代化のために走りつづけてきた台湾だが、近ごろその前向き一辺倒の方向の中から、反動のひとつとして懐旧趣味が頭をもたげた。
 そのひとつが、台北の学生街を中心に次々と生まれたレトロパブらしい。日本時代の古い建物を使い、骨董・古道具で演出された空間に、昔の映画ポスター、スターブロマイドと並んで、往年の卒業証書などを貼った、不思議空間で酒を飲む。
 その店名も「酒国学府」つまり酒飲み大学だの、「阿爸的情人」なんとパパの愛人なんてものもある。入口に人力車が置いてあるなど、一種独特のインテリアの店ばかり。
 オーナーがデザイナーだったりするのを聞くと、こうした懐旧趣味こそ、その国の文化成熱のバロメーターだと思われるのだ。
 客層は半分くらいが在台の外国人。台湾人は20代後半の勤め人風が多く、古き良き時代の空間で、わりとリーズナブルな価格の酒を飲む。これも懐旧的映画のヒットと密な関係を持つ台北の現代風俗のひとつなのだ。しかしその多くの店が、一時的営業でしかないと聞く。実はこうしたレトロパブは、数年後には必ず取り壊されるべき古い建物を使って営業しているからだ。
 ある晩僕は、友人の桜井氏とその父親を「阿爸的情人」の店に誘った。桜井氏は台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれた2世で。十年前に来日し、今は帰化して陳姓から母親の桜井姓に変わった人。
 彼とは烏龍茶を通じて友人になった。父親の陳氏は日本統治時代、軍属として海南島開発にかかわり、戦後は帰台して南投県の学校の校長先生として教育の場にいた。
 当時の教え子の中には、現職立法院議員の林光演氏がいた。彼は鹿谷農会の長として、その地の烏龍茶業を支え、今日の凍頂ブームを作った人だ。また天仁銘茶というたくさんの支店を台湾、日本、アメリカに持つ企業を起こした李さんも教え子のひとり。
 僕もその人柄が好きで、台北のお父さんと呼ばせてもらっていた。 「ほほう、昔風だねえここは」と陳さん。
「しばらく台北を離れていたから、こんな店あるの知らなかったよ」と桜井さん。
 ビールを頼むと、なんと台湾卑酒と共にドンブリが出て来た。
「そうそう、昔は欠け茶碗とか、割れドンブリで酒を飲む人も多かった。貧しかった時代が長いからね。しかし今の人は、それをまた面白がってやるんですな」
 台北のお父さんは、前立線の手術をしたため、その時はもうあまり酒も飲めなくなっていた。それでも昔話やら、最近の日台の経済の話やら、台湾でも常に話題となる金権選挙は恥ずかしいと嘆きつつも我々は楽しい一宵を過した。
 その後、台湾料理屋へ行って食事をして別れたが、それが今生の別れとなった。その年の4月に体調が悪化し、とうとう天の国へ召されてしまったのだ。
 あの日、台湾料理をつつきながら、
「そうだ、週刊朝日でね、司馬遼太郎さんが、李登輝総統と対談をしたでしょう」
「その号は僕、買って読みましたよ」
「できればコピーを取って送ってくださらんか。どうしても読んで見たいと思ったんだけど、手に入らなくて」
「ちょっと探してみます。時間かかると思うけど」
 帰国して家を探したが、週刊誌はほとんど残しておくわけでもなく、朝日新聞に頼んでコピーをさせてもらおうかと考えているうちに時が経ち、ある日書店へ行くと司馬さんの『街道を行く』の新刊、台湾編が出版され、なんとあの対談もその1冊に収められているではないか。
 それを横浜住まいの桜井氏を通じて台北のお父さんに送ることができたのが、せめてものことだった。お父さんはきっと病床であの対談を読んでくれただろうと思う。


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