クルト・クラウスという時代 (後編)

時計特集

クルト・クラウスという時代 (後編)

三田村優:写真 Photographs by Yu Mitamura
広田雅将:取材・文 Text by Masayuki Hirota,
この記事は 2014年8月発売の9月号に掲載されたものです。

もしクルト・クラウスがいなければ、現在のようなかたちでIWCは存在しなかっただろう - デヴィッド・セイファー

2WC Schaffhausen probably would have
survived without Kurt Klaus’ contribution, but in a very different way. - David Seyffer

デヴィッド・セイファー
デヴィッド・セイファー [IWCミュージアム/学芸員]
1974年生まれ。文学博士、歴史家。ドイツとスペインで学んだ後、シュトゥットガルト大学で研究者となる。2007年からIWCの歴史編纂に携わった後、10年から現職。IWCの歴史だけでなく、プロダクトにも詳しい。
デヴィッド・セイファーが書庫から引っ張り出してきたかつての設計図。手に持っているのは、往年のCal.81から85までの共通設計図(Cal.852以降は変更箇所がある)。機械式時計冬の時代に、多くのメーカーはこういった資料を破棄した。しかしIWCは資料を完全に保管しただけでなく、1968年に開校した時計学校の運営も続けた。こうした積み重ねが、IWCの復興をもたらしたことは想像に難くない。

 ダ・ヴィンチが大成功を収めた後、クラウスはまったく異なるプロジェクトにも携わるようになった。具体的には、クラーレ・エ・パピ(現APルノー・エ・パピ)とのコラボレーションである。

「1986年のことだったね。当時の彼らは仕事がなかった。(ジュリオ・パピは)私に共同で永久カレンダーを作ろうと持ちかけてきたが、私たちにはすでにダ・ヴィンチがあった。ただパピはクレバーだと思ったので、すぐブリュームラインに紹介したよ。そこで彼とミニッツリピーターを作ることになった。彼らは外部のアドバイザーとして、リピーターの設計に携わることになった」

ジュリオ・パピは自らの手掛けた初作を、IWCの「グランド・コンプリケーション」(90年初出)と断言する。彼は筆者にこう語った。

「最初の作品は86〜88年にかけて作ったものだ。私はそこである偉大な設計者(クルト・クラウスのこと)と出会った。かつての私は時計師ではあったが、設計者ではなかった。私が設計を教わったのは彼からだね。時計については彼から学んだ」。このパピのコメントをそのまま伝えたところ、クルト・クラウスはこう答えた。「当時のパピは才能に富んでいたが、リアリストではなかった。クレイジーなアイデアをいくつも持っていたが、そのままでは製品になりにくいものばかりだった。つまりプロトタイプでは問題ないが、とても生産できないものばかりだった。そこで私が製品化を手掛けた。ワイヤ放電加工機で部品を切らせたりとかね。もちろん私も、彼から実に多くのことを学んだし、いい友人だよ」。

Ref.5503

1980年代に発表されたRef.5503。カレンダーモジュールはクルト・クラウスの設計。ベースムーブメントのCal.972は、IWCを代表する傑作手巻きである。カレンダーウォッチで得たノウハウは、やがてダ・ヴィンチに結実することになる。31石。シルバー。参考商品。
Ref.5503

1980年代に発表されたRef.5503。カレンダーモジュールはクルト・クラウスの設計。ベースムーブメントのCal.972は、IWCを代表する傑作手巻きである。カレンダーウォッチで得たノウハウは、やがてダ・ヴィンチに結実することになる。31石。シルバー。参考商品。
Ref.1868

1993年に発表された「イル・デストリエロ・スカフージア」ことRef.1868。永久カレンダー、ミニッツリピーター、スプリットセコンドにトゥールビヨンを搭載した、当時最も複雑なグランドコンプリケーションである。設計監修はクルト・クラウス。18KYG。参考商品。
Ref.3750

IWCに大きな成功をもたらしたのが、1985年に発表されたRef.3750、すなわち「ダ・ヴィンチ」である。2499年まで年を表示できる機能に加え、簡潔な設計に特徴があった。なおクルト・クラウス曰く、デザインはハノ・ブッシャーによるとのこと。18KYG。参考商品。

 しかしパピといえば、今や石橋を叩いて渡るタイプの物堅い設計者であり、それが彼に名声をもたらしたのではなかったか。

「現実的になることを学んだのかもしれないね」。歴史に〝もし〟はないが、彼らが出会わなければ、パピは設計者としての名声を得なかったかもしれず、ロベール・グルーベルや、キャロル・フォレスティエ=カザピ、ピーター・スピークマリンといった、ルノー・エ・パピ出身の時計師たちも、日の目を見ることはなかったかもしれない。少なくとも、彼らの出会いがなければ、複雑時計が〝ニッチな玩具〟に留まっていたことだけは断言できる。

 この時期クラウスは、70年代後半に採用したETA製エボーシュの改良も手掛けた。なお、それ以前にIWCが使っていたのは、自社製の854系や、薄いジャガー・ルクルト製の自動巻きであった。「ジャガー・ルクルトのキャリバー889(82年までは888)は、薄くて難しい機械だった。ただ当時、代替機となるのはETAしかなかった」。彼はETAに改良の要望を送っただけでなく、自社でチューンすることでクロノメーター級以上の精度を与えた。とりわけIWCが開発した手法、たとえば香箱のトルクを全数検査したり、精密な脱進機に交換して精度を上げる手法は、他社だけでなく今やETA自身も模倣するものだ。仮にIWCが細かく改良を求めなかったら、ETAのエボーシュはこれほど高精度にならなかっただろうとは、スウォッチ グループの関係者すら認めることだ。クラウスは多くを語りたがらないが、「私はETAか
給料をもらってもいいと思うよ」という述懐は、おそらく本心だろう。

 キャリバー100を初めて組み立ててから約20年。決して天才には見えないクルト・クラウスは、非凡な業績をIWCだけでなく、スイスの時計業界全体に残しつつあった。本人にはその理由が分からないようだが、筆者には理解できる。彼が抜きんでていたのは、他者から学び、改良する姿勢ではなかったか。

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