時計のマニュファクチュール都市、ラ・ショー・ド・フォンの発展の歴史(後編)

時計特集

知られざる計画都市

時計産業との関わりを抜きには語ることのできないラ・ショー・ド・フォン。時計都市であると同時に、19世紀から20世紀にかけて、美術史の中でも重要な芸術運動のひとつであるユーゲントシュティールが時計産業と結び付き、多くの文化的造形物がつくられた。2009年には、近郊の時計産業の中心地、ル・ロックルとともに、世界遺産にも登録され、時計産業と都市機能の共生という観点からも注目を集めるラ・ショー・ド・フォン。その発展の歴史をひもといていく。

20世紀中期のエベラール本社。随所に装飾をあしらったクラシックな建築から、1930年代にクロノグラフで名声を高めた同社の興隆ぶりが感じられる。
ノーマ・ブキャナン:文 Text by Norma Buchanan
市川章子:翻訳 Translation by Akiko Ichikawa
この記事は 2012年4月発売の5月号に掲載されたものです。

時計作りのために考えられた建築

 ラ・ショー・ド・フォンでエタブリサージュ・システムが大いに発展した1840年から1880年くらいまで、街の時計師は一年中働き通しの生活が普通だった。仕事の場を住まいと同じ建物の中に持つのもよく見られたが、生活の場と同じフロアに作業室を設けていることも稀ではなかったという。

 現在、駅前から続くレオポルド・ロベール通りに立ち、視線を上方に移してみると、往年のエタブリサージュ・システムの名残を建築の中に見ることができる。パルク通りにも接した1番地(Rue du Parc 1)の建物をはじめ、いくつかの建物の上層階には、左端から右端まで大きな窓が一列に並んでいるのが目に留まるだろう。これは、可能な限り採光をよくしようとした当時の時計師のアトリエだったことを示している。また、別の建物に視線を移すと、上の階の背面のファサードから、時計師たちのトイレがせり出した形で置かれているのが見て取れる。そして、ほぼどの通りにも、簡素な多階建ての建物が軒を連ねているのに気付くはずだ。それが数ブロック続いている通りもある。これらの建物は時計産業従事者の住居として使用されていたものだ。このようなデザインより効率最優先の住宅の設計は、たいていの場合は建築士によるものではなく、企業主の発案がほとんどで、労働者自らの案に基づくこともあったという。労働者たちは、住まいの空間や外観を洒落たものに仕立て上げるために、時間を割いてなどいられなかったのだろう。なにしろ当時の時計産業では休みは週に1日のみ。日に11時間労働ということもざらであった。

上層階のガラス窓に大きく面積を取った多階建ての建物。雪深い地域にもかかわらず、暖房効率の低下や昇降の長さなどの不便さよりも、時計製作のためにまず採光が優先されていたことが分かる。

 ところで、当時のラ・ショー・ド・フォンの時計会社は、生産の機械化に関しては積極的ではなかったようだ。ウオルサムなどのアメリカ企業が、ベルトコンベヤーや最新式の製作機械によって極めて高品質の時計を生産しているのがラ・ショー・ド・フォンに伝わったのは、スイスの他の時計産業地域同様に1870年代のことであった。このニュースをもたらしたのは、時計師ジャック・ダヴィッド。ダヴィッドは1876年に独立100周年を祝うアメリカのフィラデルフィアで開催された万国博覧会に赴き、アメリカにおける時計製造の新たな底力を自らの目で確認した上で、報告書を作成している。今日、歴史的資料として名高いこの報告書は、当時のスイスでは衝撃的な内容として迎えられたであろうことは想像に難くない。その結果、ラ・ショー・ド・フォン時計産業は、近代化を図るべきか、はたまた長らくやってきたエタブリサージュ・システムを保持すべきかで騒然となった。この紛争が起こったこと自体が、ラ・ショー・ド・フォンが大きく発展しなかった理由のひとつと言えるのかもしれない。『ラ・ショー・ド・フォン時計産業の守護者たち』を著したピエール-イブ・ドンゼは、オメガの創始者のルイ・ブランが1880年に本拠地をラ・ショー・ド・フォンから30㎞ほど東に離れたジュラ山脈のふもとの町ビエンヌに移したのは、時計産業の近代化に関して反対派が多かったことに起因しているのではないかと推察している。

 意見の一致は見られないものの、市の時計産業は盛んになり、やがて、いくつかの会社は大型の近代的な工場を建てるようになっていく。1890年代にはシャルル-レオン・シュミットがロスコップ時計の大量生産のために大型工場を設置。1900年代に入るまでは、シュミット一族は市内で最富裕層の一員であった。1905年にはモバードもパルク通り117番地に大きな工場を開設。この建物は今も残っていて、現在はオフィスビルとして使用されている。ちなみに、今日は本社所在地をアメリカに置くモバードだが、製造は目下、ビエンヌで行われている。

近年、開館したタグ・ホイヤーの360ミュージアム。同社の150年以上の歴史をじっくりと辿ることができる。

 ラ・ショー・ド・フォンを主体とした周辺地域を見ると、タヴァンヌとシーマのふたつのブランドを擁するタヴァンヌ・ウォッチ・カンパニーの社主シュウォブ一族も、生産の機械化で莫大な財を成している。ラ・ショー・ド・フォン出身のシュウォブ一族はビエンヌ近郊のタヴァンヌに工場を置き、その規模の大きさは当時のスイスにおいてトップクラスだったという。シュウォブ一族の発展は、ラ・ショー・ド・フォンでも有力なユダヤ人入植者社会に属していたことも大きい。19世紀半ばに、現在はフランス領となっているアルザスから多くのユダヤ人がラ・ショー・ド・フォンへ移住したのだが、その中にはタヴァンヌの創始者テオドール・シュウォブもいたのだ。ユダヤ人の入植は、1871年のアルザス地方のドイツ併合を境に増えていった。ラ・ショー・ド・フォンには時計産業で起業し、成功したユダヤ人一族が数多く存在していたのだが、モバードの創始者アシール・ディーテシャイムもそのひとりだ。ディーテシャイムは1881年にアルザスから移住し、市内の3月1日通り13番地に会社を設立した。後に一族が建てた家屋のうちのひとつは、今もモンブリラン通り13番地に残っている。

 同じ通りに、ドイツ人の祖先を持つレオン・ブライトリングも会社を設立した。ブライトリングは1892年にサンティミエからこの地にやって来た。当時の社名はレオン・G・ブライトリングS.A.モンブリラン・ウォッチ・カンパニー(注:S.A.は株式会社の意)。同社には現在もラインナップに創設当時の所在地の通り名が残されている。

 1911年にエベルを設立したユージン・ブルムも、この地方のユダヤ人社会では名士の一族だった。1900年までにはラ・ショー・ド・フォンには900人以上のユダヤ人が住んでいたようで、その大半はアルザス出身だったという。当時の彼らは、市中に幅を利かせていたユダヤ人排斥思想に屈せず、立ち向かうことを余儀なくされる日々を送っていた。1857年まで、この市ではユダヤ人が市の境界線から内側に住居を所有することすら許可されなかったのである。

 彼らがそんな状況にも耐え抜いてこられたのは、時計産業の存在だけではなく、文化的バックボーンによるところが大きい。

 やがて、市内で最初の時計産業の大工場が作られ、その後、ありとあらゆる種類の時計関連会社が雨後のたけのこのごとく出現した。その数たるや、ドンゼは、1880年には1299社に過ぎなかった時計産業が、1900年には2697社まで増加したと述べている。その結果、手間ひま掛けて仕上げられた高価なトゥールビヨンから、厚紙製文字盤のロスコップ時計まで実にさまざまな時計が生み出された。廉価なロスコップ時計は、前述のシュミットだけでなく、高級品をメインに製造する他社でも作られていた。

碁盤の目状に整えられた区画には、屋根や窓縁に曲線で構成された装飾のないシンプルな建物が立ち並ぶ。こうした飾り気のない建物の多くは、時計会社の従業員宿舎として建てられてきた。


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